- 60. 零式3座水上偵察機 E13A1 昭和14年(1939年)
- 61. 零式艦上戦闘機(52型)A6M1~8 昭和14年(1939年)
- 62. 1式戦闘機“隼” キー43 昭和13年(1938年)
- 63. 1式陸上攻撃機 G4M1~3 昭和14年(1939年)
- 64. 艦上爆撃機“彗星” D4Y1~5 昭和15年(1940年)
- 65. 2式単座戦闘機“鍾馗” キー44 昭和15年(1940年)
- 66. 2式大型飛行艇 H8K1~3 昭和16年(1941年)
- 67. 2式複座戦闘機“屠竜” キー45改 昭和16年(1941年)
- 68. 2式水上戦闘機 A6M2ーN 昭和16年(1941年)
- 69. 3式戦闘機“飛燕” キー61 昭和16年(1941年)
- 日本で唯一現存する飛燕が各務原に
60. 零式3座水上偵察機 E13A1 昭和14年(1939年)

偵察機の主な任務は、敵艦隊や敵航空隊の発見や、夜戦誘導、敵艦隊の追尾、着弾観測など、もうほとんどをこなすマルチプレイヤー、しかも攻撃や爆撃なども加わり万能選手だったとか。


現代のようにレーダーなどの電子機器類による探知が無い時代は、目視による確認が重要な情報で、艦隊の勝敗を左右する情報源だった、それゆえに偵察機の任務は重要だ。

操縦員・航法員・電信員の3名が乗り込み、敵艦隊の発見、航法員が位置計算や観測を行い、電信員が無線で伝えるなどの任務を果たしていた。(2026.6.13)

61. 零式艦上戦闘機(52型)A6M1~8 昭和14年(1939年)

一般に零式(ゼロ戦)と呼ばれる飛行機は改良されて、いろんなバージョンがあるらしい。
皇紀2600年(昭和15年/1940年)に制式採用されたため、下2桁の「00」から「零式」(れいしき)と呼ばれた零式艦上戦闘機

52型は零戦では最も多い6000機以上(諸説あり)が生産されたとか。

ゼロ戦と呼ばれる機体も初期のころは、優秀な成績だったが、連合国軍の性能アップには付いていけず、搭乗員の練度不足、燃料事情の悪化、工業品の生産力の格差などから零戦の性能は限界を迎え悲劇的な結果に。(ゼロ戦は日本を代表する戦闘機と思ってましたが、戦時中の事情により時代遅れの戦闘機になっていたとは知りませんでした)(2026.6.13)

最初の頃は良かったみたい・・・。(2026.6.13)
62. 1式戦闘機“隼” キー43 昭和13年(1938年)

“隼”の正式名称は「陸軍一式戦闘機」で陸軍のみで使用された戦闘機で陸軍の主力戦闘機だった。(2026.6.13)

海軍、陸軍でそれぞれ違う飛行機を開発し、使用してたんだ・・・。(そりゃ、今でも行政は縦割りで目的が違えば、使用する機材も違いがあるので同じなのか。)(2026.6.13)

正式採用は昭和16年(皇紀2601年)で皇紀の末尾を取って正式名称を一 式戦闘機、愛称を「隼」と呼ばれ、映画『加藤隼戦闘隊』で有名。(見たことない・・・)(2026.6.13)

63. 1式陸上攻撃機 G4M1~3 昭和14年(1939年)

陸軍の航空機なので、地上基地から離陸し、敵基地を攻撃するために航続距離の確保は重要な要件だった。 胴体を葉巻型(最近の人は葉巻なんて知らないかも・・・)にして、爆弾を胴体内に収納するなど空力的に優れていた。(2026.6.13)

完成当時世界トップクラスの飛行性能だったが、防弾装備を軽視したため、機銃弾が命中するとすぐに発火し、連合国軍からは「ワンショットライター」と呼ばれていたそうです。(2026.6.13)

強そうに見えるんだけど、防御が弱かったみたい。(それは軍からの要求だったので仕方ない)



前にも後にも銃座があっても防御出来なかった(一説には十分な護衛も無い状態で出撃することもあり、無理な状態だったとも)。(2026.6.13)

64. 艦上爆撃機“彗星” D4Y1~5 昭和15年(1940年)

彗星の名前は聞いたことあるけど、じっくり見るのは初めてかも・・・。(2026.6.13)

急降下爆撃をするために、スピードと航続距離を追求したが生産性が悪く、開発には紆余曲折があったらしい。


65. 2式単座戦闘機“鍾馗” キー44 昭和15年(1940年)

これも名前は知っているが実際に見るのは初めてかも・・・。
中国で鬼を退治したという伝説の英雄が鍾馗とか。(2026.6.13)

操縦席付近と翼の一部の塗装が薄くなってるのは、乗り降りで塗装が薄くなっているのを表現してるからなのかな?それとも気流のせい?(2026.6.13)


前方にある大きなエンジンで視界が悪く、不評もあったが、アメリカでは鍾馗の性能に高い評価をしていたそうです。(2026.6.13)
66. 2式大型飛行艇 H8K1~3 昭和16年(1941年)

周りの航空機とは明らかに大きさが違う巨大な航空機が2式大型飛行艇、2式大艇とも呼ばれます。(2026.6.13)

大きすぎて写真を撮るのが難しく、あっちに行ったりこっちに行ったりウロウロ。(2026.6.13)

どこから撮ってもガラスの反射や照明が入ってしまう。(偏光フィルターつけてるんだけど・・・)


横から撮ったり。

どこから見てもデカい、プロペラだけでも3.9mあるとか(2026.6.13)

2式大艇と呼ぶほうがイメージと一致して自分的には好きです。(2026.6.13)


どれが「かつおぶし」?(2026.6.13)

機首の周りの細いレーダーのアンテナ?もしっかり再現されて見るとこいっぱい。(2026.6.13)


今にも機銃の音が聞こえてきそう

67. 2式複座戦闘機“屠竜” キー45改 昭和16年(1941年)

屠龍と屠竜、りゅうの文字が違う場合があり、どっちがホントなの?(2026.6.13)

Bー29が本土に飛来するようになると、迎撃するために飛び立ったとか。

操縦席の後ろに斜めに設置された機銃で下から攻撃した、時には体当たりも行なったようです。

戦時中の愛知県・清州町と甚目寺町にまたがる場所には清州飛行場(地元では甚目寺飛行場と呼ぶ)があり、今も作戦司令室の痕跡が残っています。その清州飛行場から迎撃の為に飛び立ったのが屠龍でした。

これが、今も残る清州飛行場の作戦指令室の痕跡、コンクリートの構造物が土の中に埋もれています。(2018.4.2撮影)

今となってはどんな構造だったのか判りません。(2018.4.2撮影)

清州飛行場だった場所だけ田畑が広がっています。
ここから屠龍はBー29を迎撃するために飛び立った、その面影はありません、妄想するのみです。(2018.4.2撮影)

1947年の地図に飛行場跡と記載されています、右側の地図は現在の地図ですが、飛行場だった場所には現在も公共の建物しかなく、田畑が広がっています。
この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。

清州飛行場は何度か尋ねたことがあるのと、付近を良く通るので屠龍には何となく親しみがあり、名前を憶えている戦闘機の一つです。
68. 2式水上戦闘機 A6M2ーN 昭和16年(1941年)

資源の無い日本は南方の島を攻略、守備をするのに飛行場を作るより水上機を作った方が良いと考えたらしいです。そのため多くの水上機があるとか。(2026.6.13)

零戦をもとに作ったが、海水による腐食や劣化、電気系統の防水など簡単にはいかなかったらしい。(2026.6.13)

69. 3式戦闘機“飛燕” キー61 昭和16年(1941年)

ゼロ戦と同じくらい有名と言えば飛燕?当時の日本で初めての液冷式エンジンだったが、生産に苦慮し機体だけが出来て、エンジンの無い首無し機体が大量に並んでいたとか。(2026.6.13)

見た目が細身でカッコイイが、エンジンの製造が難しく陸軍は空冷式エンジンを載せて五式戦闘機とした。液冷式エンジンを積んだ3式戦闘機「飛燕」は希少だったとか。(2026.6.13)


液冷式のため機体の下部にラジエーターのための空気取り入れ口がある。(2026.6.13)

日本で唯一現存する飛燕が各務原に

日本で唯一現存する飛燕が岐阜県各務原市にある、「岐阜かかみがはら航空宇宙博物館」に展示されています。(2018.9.28)

飛燕を作った現在の川崎重工が復元を申し出て、平成27年(2015年)に川崎重工岐阜工場(各務原市)で約1年かけて復元され、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館に展示されることになった。(費用は川崎重工が負担した)(2018.9.28)

まるでここだけ時間が止まったような空間で、静かに飛燕は羽を休めています。(2018.9.28)
あいち航空ミュージアム ⑭ 名機百選 70~79 へ続く
