京都・大阪の旅 2日目 ⑭ 木戸孝允(桂小五郎)・三条大橋の傷跡

旅の写真

桂小五郎像

坂本龍馬のかっぱ寿司じゃなく、遭難の地を見た後は桂小五郎の銅像を見に行きました。
幕末の志士であり、剣豪だったらしく、近藤勇も怖がったとか。
明治維新の指導者でもあり、お墓のところでも書いたが、現代では考えられないこともしている。

武市半平太 壮絶な最期

坂本龍馬と同じく土佐藩の武市半平太の寓居の跡がありました。
武市半平太といえば、最後に切腹をしたが、その方法が誰も出来ない事をしたらしい。
切腹と言えば、時代劇などで見ますが、実際にはあまりの苦痛に途中で気を失ったり、なかなか決心が出来ず、介錯人が斬って「お見事でした」と、扇子で腹を切る真似をして介錯人が首を斬る方法などがあったそうですが、武市半平太は腹を横に3回切る「三文字割腹の法」を実行した唯一の武士だったとか、まさに凄まじいまでの精神力と根性。
自分なんか、指先をちょっと切っただけでも痛いのに・・・
切腹を命じた土佐藩主・山内容堂は晩年、病に臥せ「半平太ゆるせ、ゆるせ」と、うわごとを言ったとか。

緋村剣心のモデルが・・・河上彦斎

 高瀬川沿いを歩いていると佐久間象山・大村益次郎遭難の碑がありました。
佐久間象山を斬ったのが、幕末の四大人斬りの一人「河上彦斎(げんさい)」
河上彦斎は映画やアニメで有名な「るろうに剣心」の主人公 人斬り抜刀斎こと「緋村剣心」のモデルになった武士で、「人斬り彦斎」、「ヒラクチ(蝮蛇)の彦斎」とも呼ばれ、剣術は独学とされ構え方も緋村剣心によく似ている。(緋村剣心は実在じゃないって・・・)
河上彦斎は小柄で見た目は女性みたいだったとか、しかし人を切るのに躊躇なく、新選組の近藤勇が京都の街中で河上彦斎を見かけて隠れたとか、勝海舟に人斬りをやめるように言われた時も、出来の悪い野菜を切るのと一緒だと言ったとか。
 そんな河上彦斎も佐久間象山を斬ったあと、人斬りを止めたとか、やめなかったとか。
それまでとは違う何かを感じたのではないかと言う説が・・・初めて罪の無い人を斬ったことによるトラウマでその後、人を斬れなくなったとか・・・それも「るろうに剣心」のモチーフになっているみたい。
「るろうに剣心」を見るまで、河上彦斎の存在自体知らなかったし、モデルがいたのも知らなかった。
 
 また大村益次郎は日本陸軍の父と言われ、靖国神社に日本初の西洋式銅像として祀られています。
以前、靖国神社に行ったとき、でっかい銅像だなと思いましたが、大村益次郎がどんな人か知らなかったので何した人なんだろうぐらいの感想でした、歴史を知らないとすごいもの見ても損します。

昔はそこらじゅうで斬り合いがあったんだろうな・・・ひぇー怖い、ほんとに血の雨が降る。
いつ斬られるかびくびくしながら暮らすなんてやだな。

佐久間象山・大村益次郎遭難之碑

三条大橋に来た理由・・・

昨日からこの辺りをうろうろして、どれだけ歩いたか。
もう一つ見たいものがありまして。

これです、擬宝珠なんて普段見ませんが、今日は念入りに見てます。

新選組の刀傷

まるで都市伝説の一つみたいで、ほんとかウソかわかりませんが、歴史の一端を見たような気になります。

橋のたもとには、こんな説明が。

三条大橋の弥次さん・喜多さん

三条大橋のたもとには「弥次さん喜多さん」の像がありました。
「弥次さん喜多さん」てホントに居たのかな?
昔の人はすごいよね、江戸から京都を歩いて旅したんだもの。

あの世とこの世の境

 平安京の時代から幕末の時代にかけて、この辺りは血なまぐさい場所だったらしい。
平将門の首も、七条河原にさらされたが、首が胴体を求めて東の方角に飛んで行った伝説があり、首が落ちたとされる東京駅近くの大手町に将門塚として祀られてます。
 この将門塚も壊したり移転させようとすると、関係者が怪我したり死者が出たりして、祟りではないかと言われ、移転されずに残っており、今でも高層ビルに囲まれた場所に祀られています。
戦後、GHQも移転させようとしたが事故が続き、事情を聞いたGHQが移転をあきらめたとか・・・(諸説あり)
三条大橋は東海道五三次の重要な橋で交通の要所、権力者がここで処刑を行うことは全国に情報が広がり、権力の維持につながったとも・・・現代のSNSですね。

そんな血塗られた歴史がある場所も現代では京都市民の憩いの場になっている。
平和な時代に生まれてよかった・・・

京都・大阪の旅 京都2日目 ⑮ 先斗町を歩くへ、続く。

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