初めて知った瑞泉寺
池田屋を後にして、高瀬川沿いを当てもなく歩いてると、豊臣秀次公の墓の石碑が建つ瑞泉寺がありました。
家の近くに豊臣秀次に関する看板を見たことがあり、なんとなく気になったので入ってみました。
普段、それほど歴史にも興味がなく、NHKの大河ドラマも見ていないので「太閤記」も見ていませんでした。
なんで有名なのか、人が多いのか、自分が歴史を知らないだけですよね。反省・・・しました。
なので、この時は軽い気持ちで、見てみるかぐらいの感じでした。
もちろん行ったときは、扁額に書かれた文字の意味も知らず、帰宅後に調べて初めて知りました。
看板の説明を読んで、これはすごい所に来たかも。
家の近くに昔、豊臣秀次が来たことは知っていたが、その後の事は知らず、秀次が切腹したことや、それに関連して39人も殺されたことも知らなかった、そして駒姫の事も。たまたま偶然入ったお寺で出会うとは・・・。
京都ってすごいところがいっぱいある。
豊臣秀次公墓
帰宅後、色々調べるうちに戦国とはいえ、秀次一族への理不尽な処刑に、説明が長くなってしまいました。
こんなことがあったなんて、全く知りませんでした。
当時の京都の人たちも、あまりの悲惨さに見物に来たことを後悔し、その日の夕方には辻々に張り紙が張られ「今日の狼藉は、無法極まる。行く末めでたき政道にあらず。ああ、因果のほど御用心候え」と書かれていたという(『太閤記』)。
瑞泉寺に来たことで歴史を勉強する、きっかけになりました。
豊臣秀吉が後継者として、秀次を養子にして関白の位まで譲ったのに、秀吉に実子の秀頼が生まれると秀次は追い出され一族もろとも処刑された。
秀吉の跡を継いだ秀頼も、その後大坂の陣で追い詰められ自害することになる。
戦国時代に生まれなくてよかった・・・。
地蔵堂
ここにも松下幸之助がかかわっていました。
なぜ秀次が切腹することになったのか、いまだに真相は謎のようです。
引導地蔵尊
京都に来て、一日目に見た変わった建物の印象があった大雲院(銅閣寺)が秀次一族の処刑にも関係していました。
大雲院は石川五右衛門の釜茹での処刑の時にも引導を渡しているそうです。
引導を授けるなんて言葉の意味も、やっと分かったような気がしました。
今回京都に来るまで、大雲院の存在も知らなかったけど、気になるところがいっぱい出来ました。
瑞泉寺絵縁起
瑞泉寺には、一族を弔うための説明が何か所もあり、悲劇を伝える場所でした。
瑞泉寺がなぜこの場所にあるのか、誰が作ったのか、どうして作られたのか、その訳を知ることになりました。
その後、別の機会で瑞泉寺とつながりが(勝手にですが)あり、忘れることのできない場所になりました。
あまりの凄い事件だったので、写真に説明を入れるだけでは足りなくなってしまい、L版写真の用紙が文字だけになってしまいました。
もはや、写真ではありません、あまりにもひどい事件なので、調べれば調べるほど書くことが多くなり、写真だけでは伝えることが出来ません。
でも、どうしても、写真アルバムに説明文を入れたかったので、L版の説明文になってしまいました。
駒姫の悲劇
一族の処刑で特に理不尽だったのは、最上義光(もがみよしあき)の次女の「駒姫」だった。
こんなことがあったなんて全く知りませんでした。
一族の処刑を決めた秀吉も、あちこちから助命嘆願の声が上がり、秀吉の側室の淀殿からも助けるように言われたとか。
そのため、秀吉は助命のための早馬を出したが、あと一町(109m)のところで間に合わなかったとか・・・なんとむごい。
駒姫最期の和歌
駒姫の母親の大崎夫人も、処刑の後、2週間後に亡くなっています。
後を追った自殺ではないかと言われ、父親の最上義光は、その後の関ヶ原の合戦で、家康側の東軍に参加し豊臣家と戦ったと言われています。
そりゃそうだよね。
駒姫の事を含め、歴史を今まで知らなかったことを後悔することになりました。
今更ですが、歴史を知るって大事だね。
京都・大阪の旅 2日目 ⑬ 酢屋・土佐藩邸跡・坂本龍馬遭難の地へ、続く。