目的地が無い西に向かって走る自転車旅 ⑬ 4日目 千姫が暮らした西の丸と祈りを捧げた男山八幡宮

旅の写真

西の丸を見学する

千姫は徳川家康の孫にあたり、姫路城にお輿入れの際、相当な持参金(化粧料・10万石)を持って来たらしい。(いやらしい話やな~10万石っていくらになるのか?大阪のおばちゃんやんか)その化粧料で造られたとされる西の丸に来ました。

西の丸長局(百間廊下)と千姫化粧櫓

千姫の化粧料で造ったとされる西の丸立派な櫓と庭が広がります。

外には簡単に行けない身分なので、城内の庭で散歩してたのかな・・・知らんけど

簡単に言うと、徳川家康の孫だった千姫は政略結婚のため7歳で豊臣家の豊臣秀頼に嫁ぎ、大阪城に住んでいたが大坂の陣で徳川家に攻められ、千姫は大阪城より命からがら脱出した。その後、徳川家に保護されたが燃え落ちる大阪城を見たそうです、大阪城で過ごした秀頼や淀殿などを亡くし、身も心も疲れ果て、その様子に徳川家康は大変心配したそうだ。しばらくして、千姫は桑名で本田忠刻に出会い一目惚れ、次に嫁ぐなら本田忠刻だと言ったとか・・・。その思いが叶い本田忠刻と結婚し、姫路城で新婚生活を始めた。(こんな簡単に説明できないほど波瀾万丈だった、勝手に妄想してます)

百間廊下

さすが徳川家の血を引く千姫を迎えるための施設です、広大な敷地と櫓を結ぶ長い廊下は防御の意味もあるとか。

ほんと長~い廊下が続きます。

渡櫓(長局)
 渡櫓の城外側は幅1間の廊下が「カの渡櫓」から「レの渡櫓」まで長さ約121間(約240メートル)に渡って連なっており「百間廊下」と呼ばれている。城外に向けて石落としや狭間、鉄砲の煙出しの窓も付設されている。城内側は侍女達の部屋があり主室と付属室などに区分され長局を構成している。
 当時、千姫はお姫様、勝姫は小姫様と呼ばれており、千姫には23人の局や侍女、16人の下女が仕えており、また勝姫には3人の侍女が仕えていたと記録に残っています。

防御のしくみ

 もうパネルの説明を見なくても姫路城が鉄壁の守りのような気がします。
しかしそれは先人たちの知恵があっての事、戦国時代を生き残り、空襲の被害も無く(実際には夜間で見分けがつかなかったり空襲されたが不発弾だったり、偶然が重なったそうです)現在までその勇姿が見れるのも、色々な人たちの知恵と努力がなければ成り立たない。

伝統の技術 漆喰

姫路城全体に施されている漆喰の量もすごいが、その技術もすごい、まさに職人の腕の見せ所。
姫路城の屋根瓦に施される漆喰は雨水の侵入を防ぐために、灰頭(はいがしら)という特殊な塗り方がしてあるとか、この特殊な塗り方に苦労したことを某プロジェクト〇で見ました。

漆喰ってよく聞くけど、実際どんなものなのかは知らなかったが、少し解った気がする。
伝統を守るには、技術の継承が無ければできず、それを引き継ぐ職人が居ないと成り立たない。今後ますます難しくなってくる。

伝統の技術 木組

昔の職人さんの知恵と技術はすごい、よくこんな仕組みを考え、継承してきた。

見ただけでは、どんな仕組みなのか、どうなっているのか解らない・・・。

たぶんこれは色々ある木組みの一つであり、これ以外にも用途に併せて使い分けているとしたら、日本の職人さんの技術の高さと努力の積み重ねに脱帽です。試行錯誤と失敗を繰り返し完成形になった立体パズルだ。

今の時代なら特許が取れるんじゃない・・・。まるで知恵の輪のような構造だ、触れてみて初めてその精巧な構造がわかる。

千姫が祈りを捧げた男山八幡宮

千姫の祈りの場所だった男山天満宮、今回は行けなかったが、次回来ることが出来たら参拝しなければ

願いが届くなら待ち受けにしてみようかな・・・。(どうせろくな願いじゃない)

 せっかく新生活を姫路城で始めた千姫だったが、幸せな時間は長くは続かず、長男を3歳で亡くし、その5年後、大好きな忠刻を結核により失った。またしても千姫を不幸が襲う。
 その千姫が毎日のように祈りを捧げたのが男山八幡宮だった。
姫路城を見に来ても、男山天満宮まで足を延ばす人は少ないんじゃない。次に来た時は行ってみよう。

寂しげな千姫像

L版写真に文字をたくさん書き入れると、小さくて見えなくなってしまうので、書き出しました。

 千姫は徳川二代将軍秀忠の姫君に生まれ、政略によって豊臣秀頼に嫁したが、大阪落城の際に救い出され、のち本田忠政の子忠刻に再嫁した。
 元和三年忠政が伊勢桑名から姫路十五万石の城主となったとき、忠刻も千姫の化粧料として部屋住みのまま十万石を与えられ、姫路に移り住んだ。
 忠刻と千姫の居館は、西の丸内に本館として中書丸を、桐の門内に下屋敷として武蔵御殿をそれぞれ築き住んだ。これらの建物は多く豊臣秀吉が築いた伏見桃山城を取りこわした用材を移して建てたもので、桃山時代の立派な書院造りの建物であった。
 千姫は、天満天神を信仰し、姫路へ来てからは、西方の丘男山にこれを祀り、毎朝西の丸の長局の廊下から参拝した。このとき、この化粧櫓を休息所として利用した。
 忠刻と千姫の夫婦仲は睦じく、姫路に来てから相次いで勝姫(のち池田光政室)、幸千代の二児をもうけ平和な日々を送ったが、長続きせず、幸千代は三才で早逝、忠刻も寛永三年三十一才で世を去った。 千姫は、同年落飾して天樹院と号し、悲しみのうちに姫路を発って徳川家に帰った。
 この化粧櫓は、中書丸や、武蔵御殿がないまま、わずかに千姫の面影を偲ぶただひとつの建物である。

広い部屋に一人たたずむ千姫、余計に寂しそうに見える。

千姫色彩乾漆座像

千姫と本田忠刻の成婚400年を記念して2016年に寄贈された座像は、平安時代以降に衰退した技法で造られたんだ。

姫路で今でも大切に祀られている千姫が、色彩乾漆座像で形になり愛されていることがわかります。制作したのは色彩乾漆彫刻家の「サブロウコスギ」氏、何だかすごい経歴がありそうな・・・

西の丸から見える姫路城、千姫もこの景色を見ていたかも。

どこから見ても美しく、どんな角度で見てもカッコイイ。

ちょっと枯れ葉なんか入れちゃって・・・。

見た目が美しいだけでなく、機能的に造られどこからも攻められないような城造りがされている。
姫路に居られる時間も少なくなってきます、そろそろ次の場所に移動します。

目的地が無い西に向かって走る自転車旅 ⑬ 4日目 好古園で緋村剣心に出会い、新幹線で名古屋に帰宅。

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