殉職者慰霊碑

以前、たまには違う道を走ろうと自転車で大曽根駅に向かっていたら、初めて見る石碑がありました。
何だろうと近づいて見ると、石碑に「殉職者慰霊碑」とありました。(以前撮影した写真が不明になったので2026.7.14に撮り直しました)

敷地は綺麗に管理されているようで、ゴミも無く大切にされているようでした。
すぐ横に中央線の線路があり、大曽根駅のホームの一部が見えます。場所はJR大曽根駅の南口から南へ線路沿いに歩くとあります。

こんな大きな慰霊碑があるのはよっぽど多くの人が亡くなったのか・・・。

石碑の背面には何か説明と人名が刻まれています。

石碑には「至誠公ニ奉シ毅然トシテ職ニ殉ス業ヲ我國有鐵道ニ操ル者ノ儀表タリ茲ニ其ノ義烈ヲ稱ヘ長ヘニ英 靈ノ呵護ヲ祈ル」と彫られています。(なんとなくわかる様な、やっぱり難しいな・・・)
意味はよく解りませんが、国有鉄道つまり国鉄職員がここで殉職したようですが、国鉄職員がそんなに多く殉職することがあるのかな・・・。(昔は事故も多かったし・・・)

帰宅後、殉職者慰霊碑の事を調べたら、こんな事が解りました。
太平洋戦争のさなか昭和20年(1945年)4月7日11時頃、大曽根駅のホームには100人ほどの乗客が列車を待っていたそうです、その時、空襲警報があり、当直の助役のとっさの判断でホームにいた乗客を乗せて、臨時列車を勝川駅に向けて発車させ避難したそうです。当時中央線は単線で信号も赤だったのではないかと言われています。(詳細不明で推測ですが)
乗客を乗せた臨時列車は勝川駅に到着し無事だったそうですが、大曽根駅に残った国鉄職員37名は、防空壕に飛び込み避難しましたが、B29の落とした爆弾が防空壕を直撃し、男性18人、女性12人、 合わせて30名の職員が亡くなったそうです。(戦時中、男性は戦争に行き人数が少なく女性が駅職員として働いていたので女性の比率が高かったようです)。
乗客の命を救い、自らは命を落とした国鉄職員を弔うために建立された慰霊碑だったのです。
石碑には、昭和二十一年 八月建之 建設委員 遺家族一同 大曽根驛員一同と彫られています。
終戦は1945年8月15日なので、あと数か月で戦争が終わる時代の出来事でした、そして慰霊碑が建立されたのは終戦の翌年の昭和21年なので、戦後の物資や資金不足の中で比較的早く、供養のために霊を悼み建立されたのでないのでしょうか。
空襲の理由と大曽根駅の昔と今

この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。
なぜ、大曽根駅付近が空襲の被害を受けたのか、上記の地図は1947年の地図と現在の地図を並べたものですが、大曽根付近は昔から三菱電機や町工場があり、戦時中は戦闘機などの軍需産業の拠点でした。そのため米軍の目標となり空襲を受けたようです。
大曽根駅にある慰霊碑は最初にあった場所から移転されて現在の位置になったそうです、慰霊碑のすぐ横には今も中央線が走り、ナゴヤドームで野球観戦する人たちが慰霊碑の事など気にすることも無く通り過ぎていきます。(自分もそのうちの一人でした)。
今回、偶然見つけた慰霊碑の事が気になり調べてみたら、自分たちの命を犠牲にして乗客の命を守った国鉄職員の尊い行動を知ることが出来ました、とても自分には真似することが出来ないような悲しい話でした。
大阪にもあった鉄道による救出劇
大阪でも空襲から逃れてきた人たちを救った地下鉄御堂筋線の話があります。
昭和20年(1945年)3月13日の深夜、大阪の街は空襲により焼き尽くされ、心斎橋には人が溢れました。
迫る猛火のなか、日付が変わった3月14日の深夜1時過ぎに突然、地下鉄へ案内する声が。
群衆が急いで構内に入ると、そこに救援列車が来て、空襲の無い梅田駅まで運行し、助けられた人は数百人とも数千人とも・・・。(長年、大阪市交通局にも公式の記録が残っておらず、幽霊電車とも言われてた。当時、空襲から逃げることは許されず、まして貴重な電気を使い勝手に電車を走らせることも許されていなかった。電車を走らせるためには電力の確保や運転士の確保など組織的に協力して運行しなければなりません、当時は違法行為であり、そのため大阪市交通局(現・大阪メトロ)も記録もせず、長らく都市伝説だったようです)。
50年後の1997年、京都大学の教授の体験談が新聞に載ったことで話題になり、証言が集められ事実だったことがわかりました。
大曽根駅の話も大坂の話も命を救うために、必死だった鉄道員の命がけの救出劇でした。
自分たちもそんなことが出来るでしょうか、私たちはそんな人たちのおかげで平和な日本で暮らしています。
たった1本違う道を通るだけで、こんな出会いがありました。
