京都・大阪の旅 4日目 ㉕ 大阪城内と巨石

旅の写真

号砲

子供の頃、土曜日は学校の授業が半日だったが、土曜日の事を「半ドン」と言いました、同じ理由だと聞いたことがあります。

百済晴次郎(くだらせいじろう)名前からすると、韓国の百済と関係があるのか・・・
調べてみたら、朝鮮半島にあった百済の王族が亡命して、子孫が大坂府枚方にお寺や街を築き,その跡が百済寺跡として残っていたり、東住吉区に百済の付く地名が残っている(南百済小学校などがある)。
日本に亡命した一族は国内の戦いのため、移動し最終的に宮崎県の美郷町(南郷村)にたどり着いたとか。岡山県の美作も百済に関係する人たちが住み着いていたみたいです・・・そんな歴史があったのか。

大阪城内

権力を示すために何でも金ぴかにしてるのでしょうか、お金持ちは金が好き。

下世話な話、お値段おいくら?

近くで見るとでっかいな。

城マニアじゃないけど、お城には部分により色々な名称があり、お城を見るときに知っていると ちょっと見方が変わり面白いかも。破風なんてどこか知らなかったし。

名古屋城の鯱は有名ですが、大阪城にもあった。
神社の狛犬や仁王像などにも出てくる「阿形」「吽行」が鯱にもあるのか・・・

ホントの秀吉?カッコよく描いてない・・・今も昔もカッコよくなりたいのは同じだ。

秀吉の兜

兜と陣羽織の試着体験が出来るみたい。
豊臣秀吉、真田幸村、後藤又兵衛、黒田官兵衛、加藤清正の兜が用意されてます。
戦国時代の武士は、鎧、兜を付け戦ったけど、相当な重量になるよね、あんなの装着してよく動けたな。

秀吉の兜の後ろについているのは馬藺の葉を模した「後立・うしろだて」で馬藺は菖蒲の一種だそうです。
武道の勝負(尚武)との縁起を担ぎつけられているそうです。(29本ある)
この後立は金属ではなく、木を薄く削って作ってあり、戦場で木などに引っかかっても折れるように作ってあるとか。ほんとに戦場で使うように作ってあるなんて・・・。
風が吹いたら首が持っていかれそう。
しかも、戦場でこんなのかぶっていたら滅茶苦茶目立ち、的になりそうなんだけど。

ミライザ大阪城

大阪城はコンクリート製なので、建物としての面白さはありませんでした。
なので、外に出てまた歩き回りました。
大坂城復興の為に集まった寄付金で軍の施設を作ったとは、今なら目的が違うとか言われて出来なかったかも。(第二次世界大戦〔1941年~1945年〕の前の、時代だったのから出来たのかな)
中に入ってみたら、現代風のショップがたくさんありました。

大阪城1番の巨石 蛸石

外を歩いているとまた巨石が・・・いったいどれだけ巨石があるのか。

こんなでかい石をどうやって見つけ、運んだの・・・
石は表面だけ大きく見えればいいので、実は厚みが無く薄く切ってあるみたいだけど、それでもすごく大きい。(上から見ると薄いと言っても、全然薄く見えません、しかもとんでもない重さ)
(登ったわけではないよ、資料の写真で見た感じだよ)

蛸の形は昔からあった、もうちょっとで別のものに見えたら恥ずかしい名前に?タコに見えてよかったよ(怒られるって・・・)発想がいまだに小学生・・・

3番目の巨石 振袖石

こんなでかい石、よく加工したね・・・。

銀明水井戸の井筒

神社の手水舎みたいなものがありました、これは何?

井戸だった。説明を読むと元々別の場所にあったものを移設したみたい、井筒って初めて聞いた。

桜門

大阪城には、大手門、玉造門(焼失)、京橋口(焼失)、青屋門(復元)、桜門(再建)がある。
桜門は雨が降ると、門の右に龍が左に虎が現れれるらしいけど、雨が降っても見えないとも・・・昔は見えた?
桜門から入れるのは一万石以上の大名級だったなんて、当時の特別な人専用だったのか。

空堀

こんな急な石垣を上からの攻撃を避けて登れないよ。水が無くても最初からあきらめそう。

豊臣秀吉像

秀吉は62歳で亡くなった、現代では考えられない戦国の世を生き抜いたんだろうな。
でも、罪もない駒姫の命を奪ったのは許せん(あくまで個人の意見ですが)
戦国時代の掟だけど・・・

大阪城内に神社があるのは知りませんでした。

多門櫓

大阪城には、千貫櫓、乾櫓、多門櫓、一番櫓、六番櫓の五つの櫓があるとか。

小さなお城より大きいかも。

多聞城から来てるんだ、聞いたことないけど・・・信長に破壊されたらしい。

秀吉もこの門くぐったのかな?殿様はどこから?

多門櫓の右横にも巨石が。

京都・大阪の旅 4日目 ㉖ 大阪城から新世界へ続く

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